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関ヶ原直前に見せた増田長盛の「転身」

史記から読む徳川家康㊶

 しかし、政局に不穏な空気が流れたのは同26日。秀吉の正室である高台院(こうだいいん)が大坂城西の丸を去った。これは、家康の意向に沿ったものと考えられており、その2日後、入れ替わるように家康が西の丸に入ったのである(『義演准后日記』)。

 

 この行動は少なからず反発を招いたようで、毛利家の家臣などは「(家康が)二丸へ押し入られ候」といった表現で本国に伝えている(『萩藩閥閲録』)。加えて西の丸に、本丸に匹敵するような天守を築城したことも、家康に対する天下簒奪(さんだつ)の疑念を深める結果につながった。

 

 翌1600(慶長5)年11日、諸将は大坂城に出向き、秀頼に年初の挨拶をした後、西の丸にいる家康に年始の祝いを述べにこぞって訪れた(『神君御年譜』)。領国に戻らず大坂に残っている五大老は家康のみで、権力の中心的人物であることがうかがえる。

 

 同年3月、オランダ船リーフデ号が豊後(ぶんご)に漂着した。家康はリーフデ号を堺に回航させ、ヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムスらと大坂城で対面している(『イエズス会日本年報』)。彼らはポルトガルやスペインの危険性を説くなどして家康の信頼を得るようになったといわれ、ウィリアム・アダムスは後に三浦按針(みうらあんじん)という日本名が与えられている。

 

 ちょうどこの頃、景勝が領内の城を修築しているとの噂が立った。これを受け、同年41日に西笑承兌(さいしょうじょうたい)が景勝の家臣である直江兼続(なおえかねつぐ)宛に申し開きするよう書状を送っている(『上杉年譜』)。承兌の書状に対し、景勝側は家康を挑発するような内容の返信をしたようだ(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。激怒した家康は、ここで会津討伐を決意したらしい。

 

 それから約1か月後となる53日、家康は全国の諸将に会津討伐を命じた(『家忠日記増補』)。同7日、合戦を避けるべく、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、生駒親正(いこまちかまさ)、中村一氏(なかむらかずうじ)、前田玄以、増田長盛、長束正家らが会津討伐を中止するよう家康に懇願している(『古今消息集』『毛利家乗』)。

 

 しかし、事態は進行する。同年62日、諸将が大坂城に集められ、会津討伐に向けた軍議が開かれている(「伊佐早文書」)。

 

 同10日、家康が軍を発することを察知した景勝は、迎撃する意思を表明(『越後文書宝翰集』)。同16日、家康は大坂城を出陣し、伏見に入った(『言経卿記』)。この時に、家康は鳥居元忠(とりいもとただ)らに伏見の留守を命じている(『板坂卜斎覚書』)。

 

 翌71日、家康は江戸城に到着(『慶長年中卜斎記』)。その翌日、石田三成は佐和山城(滋賀県彦根市)で、挙兵することを大谷吉継に打ち明けたという(『落穂集』)。

 

 同月12日、増田長盛が徳川家家臣の永井直勝(ながいなおかつ)に、三成挙兵の雑説が流れていることを報告(『慶長年中卜斎記』)。長盛は同時に、三成・吉継の挙兵に備え、家康と毛利輝元に上洛を求めている(「秋田家文書」「吉川家文書」)。

 

 ところが、同月17日、長盛は一変して長束正家、前田玄以とともに「内府(家康)違いの条々」を全国の諸大名に送付(『筑紫古文書』)。

 

 太閤の命に背いた家康の罪状を書き連ねた内容で、家康を討ち果たすことを呼びかける檄文(げきぶん)だった。以降、長盛は三成方に与することとなるが、家康方の間者だったとする説もある。なお、関ヶ原の戦いの後、長盛は家康に謝罪したものの、許されずに処罰を受けることとなる。

 

 同日には、家康が大坂の拠点としていた大坂城西の丸を毛利秀元(もうりひでもと)が占拠。同19日、毛利輝元が大坂城に入城した(『義演准后日記』)。三成挙兵の知らせが家康の耳に入ったのは、この頃のことだったようだ(「松井家文書」)。

 

 しかし、家康は当初予定していた日程である同月21日に、会津に向けて江戸城を出発している(『板坂卜斎覚書』「大洲加藤文書」)。「内府違いの条々」についても、輝元が大坂城に入ったことも、家康が知ったのはもう少し後のこと。この時の家康はまだ、正確な状況の把握には至っていなかったのである。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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